花遊小路商店街-日本一短い商店街?
花遊小路(かゆうこうじ)・・・花と遊ぶ小路。
この雅(みやび)な名前は、かつてこの地にあった「花遊軒」という精進料理屋さんの名に由来します。大正時代に入って、花遊軒があった場所にその名に因んだ小路ができ、商店街となっていきます。
ほぼ同じ大きさの間口をもった敷地に分譲され、流行りの和装を扱う店が立ち並び、花遊の名にふさわしく、旦那衆や、花街の舞妓さんや芸妓さんが得意先となっていきます。
小路であるが故のちょっとした一服感・・・新京極周辺の一大歓楽街で遊んだ人たちが、帰りに食事や買物をする憩いの場、喧騒の新京極を曲がって、家路に繋がる小路として受け継がれてきました。
やがて、アーケードが作られ、雨でも濡れずに新京極から四条通りに抜けていける商店街として、京都の繁華街を訪れる人々を見守ってきました。
現在のアーケードは2代目ですが、2013年には照明はLED化され、削減した資金で防犯カメラ、無料Wi-Fiを設置し、ノスタルジックな味わいの中にも新しいお店も出きて、活気づいてきました。
時は流れ、店は変わっても、伝統が受け継がれている京都一(いやもしかしたら日本一、世界一?)小さな商店街、花遊小路商店街。
Kayu-koji― Koji(小路) is a Japanese word for an alley and Kayu(花遊) means to play with flowers in Japanese Kanji character. It sounds elegant, doesn’t it?
This alley was built in the Taisho era (1912-1926) and named after “Kayu-ken”, a Buddhism-style vegetarian restaurant.
There used to be trendy Kimono shops around here. The affluent, Geisha and Maiko used to come here and enjoy shopping.
These days you can feel rather relaxed ambiance here, getting away from the crowd on broader streets. You’ll find lovely small shops and restaurants.
You also can get easy access to the Internet for free thanks to Wi-Fi here.
花遊小路-遊と芸の小路
都名所図会 祇園御旅所 四条道場(安永9年[1780年]刊)
花遊小路(かゆうこうじ)」。花と遊の名のとおり、ここは京都の長い歴史の中で遊と芸が交錯する空間でした。
京の街並みが現在に近い様相となるのは豊臣秀吉の時代に遡ります。中心に聚楽第(じゅらくだい)、人口増大に備えて平安京以来の碁盤の目の地割りの中央に新道を通して短冊状に生まれ変わった街並み、寺町通から鴨川までの間には寺院が集中的に配置され、町全体は御土居堀(おどいぼり:土塁と堀)で囲まれました。
公家の都から城下町に改造され、乱世の終わった「安寧楽土」の元で、自由闊達な商工業が栄えていきました。
花遊小路は四條道場と呼ばれた時宗の金蓮寺(こんれんじ)の旧敷地内に位置します。
時宗の開祖一遍上人(いっぺんしょうにん)、またの名を遊行上人(ゆぎょうしょうにん)は、各地を遊行(行脚)して賦算(ふさん)と呼ばれる念仏の札を配りました。
そして、盆踊りの原型とも言われる「踊り念仏」を広めた庶民派の上人です。
金蓮寺は鷹峰に移転しましたが、今でも金蓮寺の塔頭(たっちゅう)で弘法大師(空海)創建と言われる染殿院が新京極通り四条上った左手すぐのところにあり、安産祈願の地蔵菩薩を安置されています。
東に高瀬川の開通、鴨川の東側の開発とともに東西の往来を促し、やがて辻子(つじこ)と呼ばれる小路が寺院の間を通るようになります。そして、江戸中期になると、度重なる火災と経済的逼迫から寺院の多くは境内に芝居小屋を設けて、その収益化を図るようになりました。
金蓮寺での芝居は四條道場芝居で親しまれ、周囲の芝居とともに、やがては京の一大歓楽街として継承されていきます。
この遊芸の場に残り少ない生涯の一時を過ごしたのが、忠臣蔵で名高い大石内蔵助(おおいしくらのすけ)です。討ち入り前の2ヶ月、主君の仇、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討つ決意をした大石内蔵助が、江戸下向の準備のために滞在したのが、ここ金蓮寺の塔頭、梅林庵と伝えられています。
今は消失してしまいましたが、かつては「大石内蔵助寓居跡」の石碑が建っていました。ちなみに、内蔵助はここで京の名だたる遊郭で遊蕩にふけったという説があります。
その後、梅林庵跡に花遊軒という精進料理屋ができ、大正に入ると、その名に因んだ小路、花遊小路が出きて現在の花遊小路商店街へと繋がります。
※中央の道が新京極と思われる。花遊軒は右上に位置している。
Many Buddhism temples in Kyoto were relocated to this area in accordance with city planning in the late 16th century.
Kayu-koji alley was part of Konren-ji-temple’s precincts back then. Konren-ji-temple moved out to the northwest area of Kyoto city later, but its sub-temple Somedono-in still remains near Kayu-koji alley.
In the middle of the Edo period (1603-1867), these temples were burned down several times due to fires and they had to deal with financial difficulties. They started to set up small theaters on their premises and tried to make profits from them. This area has become an entertainment district since then.
In the early 18th century, famous Samurai Ōishi Yoshio (Kuranosuke) stayed at a sub-temple of Konren-ji-temple called Bairin-an right before he took revenge which was used as a base for Chūshingura story. He was described as an excellent leader in it. He avenged his master’s Seppuku (ritual suicide as punishment) with other Samurai at the risk of losing their own lives. He carefully planned and successfully completed it. Because of his loyalty he is still loved by many Japanese people.
Kayu-koji alley was built on the ground where Barin-an was located. Then small shops started to open there.